ありのままに知られている
ありのままに知られている
大人になり、また様々な肩書きがつくほど、「仮面」をつけて、本当の自分を覆い隠そうとしてしまう弱さが私たちにはあります。
もちろん、すべての人が「仮面」を外して言いたい放題・やりたい放題してしまったら、世の中は混乱してしまうでしょう。
しかし、「仮面」を着けることが当たり前になってしまううちに、自分でも本当の自分の姿を見失ってしまう危険性があるように思います。
「とっさの時にその人の本性が表れる」と言われますが、何かの拍子に「仮面」が外れることがあります。
ある方のお見舞いに病室をお訪ねした時のことです。本当に苦しそうにしながらも、その方の口から出るのは、親しい人たちを案ずる言葉や「イエス様、感謝です」という感謝の言葉でした。
苦しみの最中にあるときに、人は「仮面」を着けることは出来ません。苦しみの中で語られるその方の言葉に、真実の重みを感じました。
わたしたちは、神にはありのままに知られています。
わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。
<新約聖書・コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章11節 新共同訳>

「仮面」が外れたとき、私たちはどのような顔をしているでしょうか?
私のすべてを「ありのままに」知りながらもなお、私を愛してくださる神様の愛は本当に素晴らしいですね。
*すくすくと育つ稲穂。後ろに見えるのは久慈川教会です。(撮影:2016年8月 伊藤穣)