国境を定められた神
国境を定められた神
この11月から2年間、北アジア太平洋支部が主催するCLAP(英語によるコミュニケーション能力とリーダーシップ向上のためのプログラム)に参加させて頂くことになりました。
この期間、自分の任地の教会で働きながら課題を提出したり、年に2回の英語研修に参加しながら訓練を受けることになるようです。
思えば、中学生で英語の授業を受けるようになってから今まで、英語に対する苦手意識に苛まれてきました。しかし国際化が進み、私たちの身近なところにでも外国語を使う方々と接する機会が多くなってきました。
もっと早く取り組めばよかったのですが、「今からでも遅くはない!」と自分に言い聞かせています。
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
<新約聖書・使徒言行録17章26~27節 新共同訳>
英語の壁に打ちのめされるたびに「同じ人間なのに何で言語の違いがあるんだ!」と愚痴をこぼし、バベルの塔を造ろうとした人々を恨んできました(創世記11章参照)。
しかし、先の聖句によれば、民族を作り、国境を定められたのは神であり、しかもそれは「人に神を求めさせるため」だと言うのです。
言葉が通じないというのは不便です。文化や習慣の違いから民族間の摩擦が起きることもあります。しかし、この「違い」のゆえに人が神を求め、神を見いだすことが出来るのだという、この聖書の約束は私たちにとても大切な視点を与えてくれるように思います。
※写真は、広島三育学院大和キャンパスからの朝日です(10月31日撮影)。
セブンスデー・アドベンチスト八王子キリスト教会 牧師:伊藤 滋